字の汚さは心の強さ

作文をのせます。

偶然を信仰する

 仏教徒です。父と母で宗派がちがうので、自身の宗派はよくわかっていません。日本人の多数派に漏れず、宗教心は薄いです。

 

 それは置いておいて、個人として信じていることと、お祈りのようなものがあります。

「偶然の出会いは誰の功績でも罪過でもない」ということと、「偶然に対する愛と憎しみは偶然そのものに対して示す」ということです。

 

 雑にいうと、「めちゃくちゃ好み、もう自分のためにいるとしか思えない尊い推し」に出会えた時、その人に対しては出会いに感謝しない。出会いそのものに感謝する。 

 

 クソ不遜なファンのようですが、私にとっては大事なことです。

 「愛や感謝」にしろ、「悲しみや憎しみ」にしろ、そのものによらない、出会いそのものへの感情を対象に向けるとろくなことにならない。感情が暴走しやすい。

 

 私の場合、好きなものに対するときのほうが特に危ういです。

 好きなものに好意を示すのが趣味なのですが、そのものの好きな部分への好きさに増して、「出会ってくれてありがとう」まで載せると、そのまま好意の感情が宗教や信仰心へと一気に育ちます。(何度も言いますが、私の場合、です)

 

 で、好きになった人が「信仰されるプロ」であることってほとんどなく、たいていの人は過剰な好意は受け止めきれずにその上何かを損なったりします(平常心であったり、他のファンへのまっとうな対応であったり)。

 信仰されることを職業として信念と責任を持ってやっていっている人。それこそプロのアイドルの方ならば、上手に受け止めてくださるかもしれませんが、そうだとしても剥き出しの好意をただ渡す気にはなりません。

 

 理由なく強い感情を持った人や、持たれた人は暴走しやすい。

 そういう経験や思いがあり、偶然を信仰しています。以上です。

 (理由があろうと強すぎる感情はやばいと思うのですが、とりあえず偶然由来のものを本人から外すと大部分が軽減できるし、私にとってそこを外すのは納得しやすいので、そういう形の信仰をしています。)

 

 推し尊いしかっこいいしかわいいですが、その事実と私が出会えたこととは関連しないのです。