字の汚さは心の強さ

作文をのせます。

偶然を信仰する

 仏教徒です。父と母で宗派がちがうので、自身の宗派はよくわかっていません。日本人の多数派に漏れず、宗教心は薄いです。

 

 それは置いておいて、個人として信じていることと、お祈りのようなものがあります。

「偶然の出会いは誰の功績でも罪過でもない」ということと、「偶然に対する愛と憎しみは偶然そのものに対して示す」ということです。

 

 雑にいうと、「めちゃくちゃ好み、もう自分のためにいるとしか思えない尊い推し」に出会えた時、その人に対しては出会いに感謝しない。出会いそのものに感謝する。 

 

 クソ不遜なファンのようですが、私にとっては大事なことです。

 「愛や感謝」にしろ、「悲しみや憎しみ」にしろ、そのものによらない、出会いそのものへの感情を対象に向けるとろくなことにならない。感情が暴走しやすい。

 

 私の場合、好きなものに対するときのほうが特に危ういです。

 好きなものに好意を示すのが趣味なのですが、そのものの好きな部分への好きさに増して、「出会ってくれてありがとう」まで載せると、そのまま好意の感情が宗教や信仰心へと一気に育ちます。(何度も言いますが、私の場合、です)

 

 で、好きになった人が「信仰されるプロ」であることってほとんどなく、たいていの人は過剰な好意は受け止めきれずにその上何かを損なったりします(平常心であったり、他のファンへのまっとうな対応であったり)。

 信仰されることを職業として信念と責任を持ってやっていっている人。それこそプロのアイドルの方ならば、上手に受け止めてくださるかもしれませんが、そうだとしても剥き出しの好意をただ渡す気にはなりません。

 

 理由なく強い感情を持った人や、持たれた人は暴走しやすい。

 そういう経験や思いがあり、偶然を信仰しています。以上です。

 (理由があろうと強すぎる感情はやばいと思うのですが、とりあえず偶然由来のものを本人から外すと大部分が軽減できるし、私にとってそこを外すのは納得しやすいので、そういう形の信仰をしています。)

 

 推し尊いしかっこいいしかわいいですが、その事実と私が出会えたこととは関連しないのです。

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きょうだいについて

 きょうだいがいます。

 いわゆるきょうだいは常識的な人数ですが、「幼少期~義務教育期に同居していた同年代」とすると、10人くらいいます。くらいというのは、同年代の上下の基準をどうするか、というあたりです。

 雑に言うと父に兄弟が多く、それぞれがお嫁さんを家に連れてきていて、それぞれそれなりに子どもがいた、という形です。いとこがとても多い。田舎の出身なのです。それで、なんとなくいとこも含めて「きょうだい」と呼ぶ家でした。

 

 きょうだいの中で、比較的遅くに生まれた私は、そこにある子ども社会になんとなく庇護されながら育ち、ありがたいことに親に大学の金やら出してもらい、それきっかけに一人引っ越し、今は実家から離れた地で生活しています。

 

 毎年正月は帰る。偉いもので、三が日はおおむねのきょうだいたちは出席しています。

 家に残った(周辺に新たな家を持った)きょうだいは半分弱です。彼らは、農業をしていたり半農だったり完全に勤め人だったり様々ですが、どの人も周囲の方との結びつきが強いです。

 実家から離れたきょうだいの分を埋めるかのように、「○○家の息子さん・娘さん」代表として周囲から扱われています。そんな感じで、生活しています。

 

 皆が皆、選んで生きてきた自分の人生のはずでが、すこし、自分の別の可能性を見たような気がして、ぞっとしたのです。

 

 何せ、顔面がめちゃくちゃ似ている。

 

 はー、皆さん幸せそうで何よりですわ。どうか皆幸せなままでありますように。

 あと、きょうだいってひらがなで書くとそれだけで怖いっすね。

お守りが多いこと

 好きなものや人物が多く、ちょっとしたお気に入りの品をたくさん持っています。形式は物体だったりそうじゃなかったり様々です。

 

 お気に入りの銘柄の消耗品・感動的だったライブの半券・ウォークマンのプレイリスト・かつての同僚がくれた何処のお土産かも忘れたキーホルダー・好きな人のイメージで買った万年筆 など

 

 乙女のようですね。実際、それらをふと眺めた時の心持ちには、物語の中の少女のような清純さがあるように思います。(生きた人間がその気持ちを持っていて清純かはともかく。)

 そういうお守りのような品々は、ちょっとした失意を軽減したり普通のテンションをちょっと上げることに大変役立ちます。すっげえ絶望(ままある)を吹き飛ばしたり、すっげえハイテンションに持っていくことはできませんが、平たい日常をちょっと上向きにします。

 

 近頃、日常が平たくなく、お守りが効きもせず、日ごろ如何にお守りに助けられていたかと思いだしたので、忘れないうちに書きました。

 

 以下は、お守りの羅列。羅列してみると、目で見て当時を思い出すものと、手で触って楽しむものが多いかなと思います。書いてないけど他にもたくさん。お気に入りを見つけては庭に埋める犬のようだなとも思う。

 

 

・万年筆とインク(個人的には実用品だが、お守り力が高い。奇麗な色が出る奇麗な棒。)

・雑記帳(好きな文を書いたり写したり、ものの感想を書く)

・nanaterryのファイル(PC用メモソフト。上の感想を清書したりする)

・好きな本の初版と新装版のセット

・手帳の見返しに書いてもらった、芸能人のサイン

・携帯で撮ってもらった2ショット写真(コンビニで写真紙プリントにかけた。)

・キャラ物のインナー(中に着ると、心が強くなる。今日は死ねないなと思う。)

・マジでかっこいいアロハシャツ(ガラが悪く、着る機会はない)

・寝かしていいタイプの酒(実家におきっぱなので手元にはない。実家に帰った時に可愛がる。)

・でか丸い携帯用ルーペ(万年筆のペン先を見てにやついたり、インクのにじみを見てにやついたり、手の中で転がして遊ぶ)

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雨に打たれれば

 雨でした。一定以上に濡れてしまうと、あるところから濡れによる気持ち悪さが楽しくなってきます。一般的な感覚なのかしら。

 

 足に張り付くジーンズ生地、ぐちゃぐちゃと鳴る靴下とスニーカー、首回りは雨と髪からのしたたりが煩わしい。煩わしさを知覚するほどに気分が暗くなるのですが、どうしようもなく濡れたあたりからはいつも声が漏れるほどに笑ってしまいます。

 濡れと暑さがあってこそなので、夏のせいかもしれません。

 

 とりあえず、傘を持ち歩くなり各拠点に雨具を置くなりすべきですね。靴は、どうしたらよいものか。

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雨の日の服

 雨が強い日、私の服装は「濡れによる被害を抑えたい」という目的のために2パターンに収斂していく。

 

・濡れないための服装

 雨がっぱ、ゴムズボン、レインブーツなど:

濡れを表面にとどめ、また脱ぎ着する際にも水気を閉じ込めるための服装。理想を言えば下は胴長を履きたい。

雨がっぱ、意外と脱ぐときに被害が広がるので、裾や袖口の形に好みが出る。

 

・濡らす前提、濡らした後の洗濯が楽な服装:

丈夫なTシャツ、柔らかいズボン、サンダル。濡れる前提。即風呂できる日の外出に。

サンダルに限らず、水はじく靴は濡れた後の手入れが楽で便利ですね。

 

 今日は天気予報を見ずにジーパン・スニーカーで出てしまって大負けしました。梅雨よ。

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ガチャ目と乱視と挙動不審

 左右の視力がだいぶ違います。

・左 軽微な乱視

・右 それなりの近視で乱視(小学校低学年までは左と同程度によく、そこから半年で現在と同程度まで落ちた。原因未調査。)

 

 裸眼で車の運転が許可される程度の視力がありますが、実際には難しいです。具体的には、遠くを見ようとするとすべてが双子以上に増えます。Y字路とか大変怖いです。

 

 近くは見えるのですが、裸眼だと物が立体的に見えません。

 不思議なことに、両目を開けているのに、脳が勝手に補正して左側の目から見たら風景しか視界に入ってこない。(片目をつぶろうが同じ景色になる)そのため、立体感が必要なことはうまくできません。運転や、3D映画や、一部の双眼鏡など。

 

 初めてメガネを作った時、世界が立体的に見えるので、とても驚きました。こんだけ世界が立体に見えるならそりゃお前ら球技上手いよねとか、なぜか同級生らにふてくされたのを覚えています。

 

  メガネは使いますが、長い間片目で物を見ることに慣れていたからか、 使うとそれなりに疲れます。ので、結局日頃はガチャ目で過ごしています。

 

 そうすると距離感がわからない。しかも乱視も入ってくる。

 

 そんなわけで、すこし距離感が必要な作業をすると、首を傾げたり体が左右に揺れたり(ともに乱視と距離感の補正)、無意識に不審者丸出しの挙動が出ます。

 やたらと首をかしげる、可愛いあの子も乱視なのかもしれません。

 

 ひどい終わらせ方だ。おやすみなさい。

予防線を張る

 文章・しゃべり方ともに、回りくどいとよくいわれます。

 

 条件の指定であったり、例外の提示であったり、必要だと思い足しているのですが、それが冗長だったりするのかなと考えてます。

 予想し得る誤解をみすみすさせてしまったり、意地悪な返され方をさせる隙を残したままにするよりは、回りくどくて冗長なほうがましだという考えのもとこんな感じに落ち着きました。

 無駄に冗長な分や、無駄に文語ぶったところは観察しつつ治していきたいです。

 

 社会の正義としては、どうなんでしょうね。個人間なら好みで好きにして良いと思います。誰もがご自身の任意で使う言語と受け入れる言語を決めてよいと思う。

 仕事とか、公的な場だと、その場の言語ルールが最優先でしょうか。でもたいていの場は決まってないっすよね。

 ある程度の研究施設とかだと言語ルールがしっかりしているのかもしれない。

 どうでしょうね、あんまり賢い空間に居れたことないですが、並みの大学研究室程度ならばルールはまだ混沌としている印象があります。

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